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洪家門史
―虎拳の系譜―洪家拳とは 洪家門史 洪家拳雑記
洪家拳の歴史は古く、明末清初(17-18世紀)にまでさかのぼることが出来る。その始まりは数 々の伝説に彩られているが、すべてに共通するキーワードが「南少林寺」である。
●洪熙官 と南少林寺
清朝の雍正帝(18世紀前半)のころ、福建省に洪熙官という人がいた。茶商であった という。生没年は定かではなく、実は、清代の武侠小説『万年青』に名前が見える程度の伝説的な人物なのだが、この洪熙官が洪家拳を創ったというのが、最も よく知られた説である。洪という姓だから「洪家」なのである。
洪熙官は、福建省甫田にある「少林寺」の在家の弟子だった。至善禅師という高僧に武 術を学んだが、縁や体格上の理由から「少林虎拳」のみを会得したという。
時しも、北方の満州族が中華全土を制圧して間もないことである。漢民族の抵抗力をそぎたい清朝は、少林寺の武力を危険視し、寺を焼き打ちにした。洪熙官 は広東に逃れ、反清復明(清を滅ぼし明を復興する)を誓うとともに、新たに洪家拳を編み出して広めたという。同じ南拳の詠春拳の創始者で、女_の方永春か ら教えを受けたというエピソードも伝わっている。少林寺と言えばふつう、河南省嵩山のふもとにある、達磨大師が開いたという禅寺のこ とである。7世紀から今日まで中国武術の総本山として知られ、映画「少林寺」の舞台はこちらである。明の時代には、少林寺の武術はとくに盛んになった。
しかし、ここで言う少林寺とは、福建甫田にあったとされる「南少林寺」なのである。これを江西省 の常山少林寺だとする説もある。
南少林寺が焼き打ちに合い、至善禅師はじめ多くの武術家が逃れ、野に下ったというのが、香港などの武打片(時代物カンフー映画)でもよく取り上げられる テーマだ。
福建少林寺は資料的な裏付けに乏しく、反清の志士たちがその理想を託した架空の存在とみられてきたが、近年、同地から寺院跡が発掘され、「少林」と記さ れた遺物も出土したことから、実在説も出てきたという。福建少林寺については、そもそも至善禅師は嵩山少林寺の僧だったが、清朝の焼き打ちにあったので 福建に逃れ、福建少林寺をつくったという説や、福建少林寺の焼失後に感法大師、杏隠禅師という高僧が再建し、武術を教えたという説もある。
なお「洪拳」とは、嵩山少林寺や中国西北の武術にも見られる名前なのだが、それぞれ風格や技は異 なっており、嵩山少林寺のものは「紅拳」とも書く入門の技である。したがって、当会のものも含め「南拳」系の洪家拳は広東洪拳、福建洪拳などと地名をつけ て呼ぶことも多い。
●秘密結社「洪門」
もう一つよく言われるのが、反清復明の秘密結社「洪門」の義士たちが使う武術だったという説だ。 「洪」とはこの場合、明王朝を開いた「洪武帝」を指すという。
洪門(後の天地会)の伝説では、清朝の康熙帝のころ、福建少林寺の武僧たちが朝廷をたすけて西方 の「西魯国」を討った。しかし、その後の清朝の画策と内紛で、福建少林寺は焼かれ、蔡徳忠、方大洪、馬超興、胡徳帝、李式開という5人の僧だけが逃げのび た。
5人は陳近南という学士と巡り合い、陳は彼らと協力して反清復明の政治結社「洪門」を結成した。洪門は清朝と戦って敗れ、地下組織になったが、5人の僧は 「少林五祖」と称えられ、今日のさまざまな「南少林拳」の源流になったとされる。秘密結社となった洪門は、後に「天地会」「三合会」「哥老会」などと名称を変え、あるいは分裂し ながら存続した。メンバーは反清復明を目指し、己を鍛えるために洪家拳を学んだという。これらの秘密結社は清末の革命にも協力しており、例えば孫文と三合 会の関係は有名である。
このほか、やはり秘密結社の「青幇」に関しても、少林寺の僧が結成し、その武術を伝えたという伝説がある。
●清末の名家
清朝も後半(19世紀−20世紀初)になると、系統や師弟関係がはっきりしてくる。中でも、鉄橋 三(1813-1886年?)が有名である。広東の人で、本名は梁坤。至善禅師の弟子で福建少林寺の僧の覚因和尚という洪拳名手から「鉄線拳」を学び、生 涯の絶技としたという。異常な豪腕で、片腕に6人をぶらさげ平然と百歩も歩いてみせたことから「鉄橋」の異名を取った。
義侠の人で、清末の「広東十虎」(広東で最も武芸に秀でた十人)のトップに挙げられている。この弟子に林福成という人がおり、黄飛鴻に鉄線拳を伝えた。
一方、やはり至善禅師系で陸阿彩という名手がおり、伏虎拳など虎拳に秀でていたようである。この陸阿彩が広東南海の黄麒麟に洪拳を教えた。黄麒英は黄飛 鴻の父親で、「広東十虎」の一人に数えられている。
●黄飛鴻と林世栄
一口に洪家拳といっても、広東、福建から広西、四川、湖北、湖南まで各地に広まっており、それぞ れ技や風格も異なっている。これらを体系化し、発展させ、近代洪拳として広めたのが黄飛鴻と林世栄である。
黄飛鴻(1847−1924年?)は、5歳の時から父・黄麒英に洪家拳を学んだ。家は薬屋を営ん でいたが裕福ではなく、黄飛鴻は13歳の時には父について街頭で武芸をみせ、薬を売っていた。既にそのころから武林(武術界)に頭角を現し、家伝の棍術で 広州の名のある武術家を打ち破ったこともあるという。鉄橋三の高弟・林福成に出会って「鉄線拳」の教えも受け、武術界で高い評価を得るようになった。
黄飛鴻は「虎痴」と呼ばれるほど虎形、虎爪を好み、単工伏虎拳、双工伏虎拳、猛虎拳、黒虎爪拳などさまざまな拳に通じていた。器械(武器)類では、五郎 八卦棍、子母刀など。また、北派の武術家との交流から、「無影脚」と呼ばれる迅速無比の蹴りを身に付けたという。
やがて父の跡を継いで広州、佛山の両地に「宝芝林」を開き、武館(道場)を併設して弟子をとった。医術にも優れ、義に厚く、多くの人に慕われたという。 弟子には、林世栄、梁寛、陳殿標、陸正剛、凌雲海らがおり、いずれも武術界で名を挙げている。
民間の武術教練なども務め、地方軍の指導を任されたこともあった。1888年にはベトナムでフランス軍を破ったことがある英雄・劉永福(1837- 1917)の「黒旗軍」に、軍医兼教練として招かれ、その後も、劉をたすけていくつかの戦いに参加している。その生涯と業績は、林世栄の弟子の朱愚齋が小説にして広州の新聞に発表し、読者の好評を博し た。「黄飛鴻別伝」などが有名である。朱愚齋の著作を母体として、香港で黄飛鴻を題材にした映画が生まれ、今日まで百本以上もの映画が撮られている。
黄飛鴻の教えを整理し、後世に伝えたのが林世栄(1861-1942)である。幼いころから武芸 を好み、長じて黄飛鴻のもとに弟子入りした。若いころは肉屋をしていたが、武術家として名をなしてからは、師と同じく軍の教練に招かれてもいる。
林世栄の最大の功績は、黄飛鴻の教えを「工字伏虎拳」「虎鶴双形拳」「鉄線拳」の三套路にまとめ、書物として刊行したことだろう。いずれも技の名称と解 説、林本人をモデルにした図解付きである。
黄飛鴻までの洪家拳は、前述のようにさまざまな「虎拳」や他の拳法に細分化されていた。套路には、重複や偏った部分が多かったという。黄飛鴻がそれらの 精華を一身に集め、近代洪拳に昇華させたといえるが、それをさらに近代的に、言い換えれば分かりやすく、誰もが学べ、かつ古伝を受け継いだスタイルとして 確立したのが林世栄だったのである。
林自身も人望厚く、広州で武館を開いて数多くの弟子を育てた。後に香港に渡り「虎鶴門」を創始している。黄飛鴻、林世栄の手によって、古い伝統を持つ洪家拳はいわば「近代洪拳」として生まれ変わり、広 東人(カントニーズ)の移住に伴って世界中に広まった。今日では、世界中で数十万人の人が黄飛鴻系の洪家拳を学んでいるともいわれる。
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